不在による存在感の存在について。
2021年8月4日㈬☀
母が入院して早3日。
今日は午後から、
今後の検査/治療の方針や
リスクについての説明を受けるため、
父と一緒に主治医の先生に会いに行ってきました。
久し振りに母に会い、一緒に説明を聞く。
先生の治療方針の提案を受諾。
そうします。
私の
「採った胆石は捨てるんですか?石、見れます?」の質問に、
先生曰はく
「お見せできますよ。これは完全に雑談ですが、
熊の胆石は漢方薬として重宝されるとか。」
そうなんだ~
先生ありがとうございます。安心しました。
だいぶお若そうなのに、
なかなか良い引き出しを持ってらっしゃる。
そんなこんなで、一歩ずつ事は進んでいます。
しかしながら、母の姿を自宅で見かけなくなって3日。
いないことで、強調される母のいた日常。
いつかはこんな日が来ると
誰もが想像していながら、
本当に突然にやって来ると想像以上に途方に暮れるものだし、
自分の馴れていた日常を懐かしく思うようなことが
これからもあるのだと思ってはいるし、
誰もが通る道なのだと理解してはいるものの。
戻らない日常と戻せるかもしれない日常との間で、
まだ揺らいでいる次第です。
今回は巻き戻しがまだできそうなので、
母が戻ったら、これまでの家事の分担を考え直さなくてはと、
反省している。
新しい生活様式の必要性は
コロナ対策だけではないようです。
きっといろんな「新しい」があるんだな。
日常/習慣となっている役割とか
ものの見方を変えていかなくてはならない、
これまで通りだと必ず行き詰まりとなる、
そんな節目に「病」の神様が潜んでいるのだと
感じています。
だるまさんの赤い色は、
天然痘の神様が嫌いな色なのだとか。
病の神様の言い分も聞いてみる
必要がありそうです。
今朝は🍅を描いてみました。
動揺「トマト」より🎵
と~まとってかわいいなまえだね!
上からよんでもトマト、下からよんでもトマト🍅
ギャラリーの方は旦那が頑張って展示作業を進めています!
猫はボンボンベッドで伸びている、
夏です。
今年の夏は一筋縄ではいかなそうですが、
それなりの収穫もありそうだ。